となりの音楽家の ひとりごと |
バッハを聴いて |
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高齢者の目覚めは早い。テレビをつけてみるとバッハのピアノ曲が演奏されていた。ピアノにはファツィオリと書かれている。初対面だが10106好みの響きだ。後で調べてみると、いろんな演奏に対応して表現の幅が広がると評価されて世界の名ピアニストが愛用し、ショパン・コンクールでも使用されているとのことだ。10106はピアノは弾けないが、多くのコンサート(演奏)に出かけてピアノの演奏もよく聴いてきた。多くの一流コンサートホールに備え付けられているスタインウェーは華やか、とくに高い音のきらめきは出色でコンチェルトに最適。残りのほとんどがヤマハのピアノで、こちらは低音から高音域まで響きが安定している。ジャズや現代音楽など演奏で世界的にも重宝されている。落ち着いた響きのベーゼンドルファーにも根強いファンがいる。10106もそのファンの一人である。ファツィオリの値段はスタインウェー並みと伺う。今後どんどん普及していくように思う。 10106は最近クラシックの演奏を聴くとき、ユー・チューブの動画を視聴する。演奏するのは往年の名演奏家たち、新進気鋭の若い演奏家たち、そして10106たちアマチュア音楽家たちと多彩だ。目立つのは最近の若い演奏家たちのうまいことである。精緻なテクニックはもちろんのこと、細やかな音使いもなかなかである。アマチュア音楽家たちも然り。これも動画や録音の情報がネットで瞬時に配信でき、いつでも簡便に見聞き(勉強)することができる時代だからこそであろう。 バッハの時代には音楽は神への捧げものだった。庶民もそのときにご相伴にあずかった。音楽はまた宴でも演奏され、娯楽として楽しむこともあった。思えばこの形式は古代から続いていた。今のコンサートは宴の形式が発展したのだろうか?しかし、当時の楽器の表現の幅は決して大きくなかった。バッハが今日のクラシックコンサートを聴いたら、きっと目を丸くしたに違いない。 |
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さて、放送内容に目を戻そう。コンサートはアンジェラ・ヒューイットのピアノ・リサイタル。曲目はバッハのインヴェンションとシンフォニア(全曲)。収録は2017年5月29日、紀尾井ホールとある。AH氏は的確なタッチでバッハの複雑かつ美しい音の世界を精緻に具現化していた。実にすばらしい演奏!であった。その演奏を聴いたとき、ふと狩野山楽という日本画の絵師のことを思い出した。2013年に京都国立博物館で「山楽、山雪の展覧会」に行ったことがある。山楽は安土桃山時代の狩野永徳の弟子で、永徳のきらびやかでたくましく、精緻な技法を見事なまでに継承、表現していた。山楽の作品と出会った刹那に10106は凝視、一瞬これは永徳を超えたのでは?と感服したことを覚えている。ただ、時を経るにしたがって、何か物足りなさを感じるようになった。なぜ?の疑問に友人Fが「それはあくまでも師匠の技を継承していただけ!個性がないからだろう」とさりげなく答えた。 器用な演奏者の欠点は何でもすぐにできるので、飽き易いことである。器用貧乏になりがちだ。しかし、飽きずにがんばればAH氏のように完璧に近い演奏が可能だ。美術でいえば工芸品、人間国宝にもなりえるが、偉大な芸術家にはなれない。と10106は思う。不器用な演奏家は器用な演奏家を羨む。そして努力を尽くして練習に邁進する。けれども、器用な人には到底かなわない。そこで次は個性的演奏を目指す。理想の音楽の要素は多岐にわたる。響き、フレーズ、ハーモニー、ダイナミクス、、、細かいテクニックの上達には目を瞑って、得意なもの、自分しか表現できないものを探し、目指すのである。当然器用な人にもそのチャンスはある。若かりし頃のパブロ・ピカソのデッサンの腕はまさに天才級だったと聞く。しかしそのピカソ、晩年には「デッサンは見たものをそのまま写すのではない。心で感じたままをキャンパスに写すことだ」と述べたとも聞く。山楽もどこかで何かを見つけられたら、彼の作品ももっと長く、深く感動を与えることになっていたかもしれない。少し残念な10106であった。 |
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(10106: 2022.10/3) |
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