音楽の大きさ
 

  このお盆に、卒業した京都の高校のOBオーケストラの“第九”の演奏会がある。今、練習にいそがしい。オーケストラなど練習では、音程、速さ、音の大きさなどをそろえるのであるが、これがなかなか難しい。演奏するときは回りの様子を見ながら(本当は聴きながらだが…)大きな流れに身を任せる。この流れにうまく乗れれば快感なのだが、うまく乗れないないときは気持ち悪く、回りからも白い目で見られてしまう。オーケストラではこの流れを作るのが指揮者であり、個々の演奏者としては精神的には楽ともいえる。

  さて、はじめて曲を練習するとき、先ず音程、速さがあるていどできるようになれば(これがなかなかできず、私はつい、いいかげんになってしまうのだが…)、次に抑揚や微妙な速さ、音色の変化に取り掛かる。ここはこうかな、ああかなと試しながら悩むのだが、この過程が私は一番好きだ。これで曲は完成するはずなのだが、このあと悩ましい問題が残る。

   

  曲を演奏して、曲全体のまとまりを考えてみる。この最後の過程、交響曲、組曲、弦楽四重奏曲などの管弦楽や合奏曲では必ずといって意識されている。しかし、ソロの曲では必ずしもそうではない。往年のヴァイオリンニストやピアニストのなかには気の向くままに演奏しているとしか思えない演奏も数多い。その演奏が良くないかと言えばそうでもない。私の大好きな演奏家の演奏は、あまり曲想、曲全体の構造に神経質にならず、演奏家の感性で一見おおらかに弾ききっているものが少なくない。彼らの演奏は果たして大きいのか小さいのか?うなってしまう。

  最近の演奏家の音楽は緻密に、そしてしっかりと構築されている。また、そのような演奏が高い評価を得ることが多い。たしかに、素晴らしい演奏なのだが、聴いていると疲れるのは私だけだろうか?私が年取ったせいかもしれない。一生懸命演奏すれば、演奏家は満足する。聴衆も感動する。しかし、6分の力で演奏された音も心地よい。こんなことに悩むのは自分の求める音楽が見えていないからだろう、と思ったりもする日々である。

  あなたのすきな演奏家の音楽の大きさを考えたことがありますか?

  (TNVN 2002.8/2)